神事として杉を焼く
神様に祈りを捧げながら
ただ黙々と表面を焼かせていただく
同じことを繰り返すこと
同じことをただただ淡々と淡々と
それは一見機械的作業であり
機械化がなされた現代では
無意味で非効率なこととみなされる
果たしてそうだろうか?
効率を追った先にその人達は何を見ているのだろう?
きっと答えられない
なぜならその先には何もないから
非効率なことをヒトの手で行うことは
神との対話
仏への帰依
この身は我が身に非ず
神仏の化身として
彼らの代わりとして
彼らの代わりに作業させていただく
![](https://i0.wp.com/wsl.omoidea.com/wp-content/uploads/2022/09/IMG_5021.jpg?resize=728%2C412&ssl=1)
かれらと一体になるために
ただただ反復作業を繰り返す
そこにヒトの意思はなくなり
神仏からの動きによって動かされる
神々しさはそうやって生まれてくる
プライスレス
何よりもヒトの念いが込められる
その時代に生きたヒトの祈り
この世の平和と安寧を
宇宙と一体の世界の理を
この世界に物質化するのが建築
神々しい世界はそうやって生まれ出てくる
何も荘厳でモニュメンタルな
巨大建築である必要などない
小さくともそこに携わった
人間の意思を感じる建築
数々の職人が腕をふるい
完成という目的に向かって一体になる
住処をつくる
その美しき世界を体現するために
お金には変えられない価値
プライスレスなものでこの世界は
そもそも出来上がっていることを
令和の私たちは忘れてはならないと念う